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今まで歴史上において、人類歴史は復帰歴史であるということを知った人はいない。
歴史の背後関係を、復帰という問題で決着をつけたということは、我々統一教会が歴史に残した大きな功績である。
この歴史の背後の大本となるのは神であり、神が責任を担当して、今まで歴史をずーっと支配して発展させてきた。そのために、数多くのいわゆる「復帰」という使命を負わされた個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって段階的に歴史は発展してきた。この復帰歴史の完成、復帰の目的をいつ成し得るのか、これが歴史の問題であり、あらゆる問題解決の基準になっている。
● 01-01「今まで歴史上において、人類歴史は復帰歴史であるということを知った人はいない。」
「御旨と世界」の巻頭を飾る一文。
人類歴史が復帰歴史であるという歴史観。これそのものが、大きなインパクトです。
一般的に、歴史は発展する、というと、歴史はどういう方向にでも進んでいく、と考えます。そういう歴史観の中に「復帰」という考え方を持ち出すと、これは今までの考え方に大いに反するものとなります。なぜなら「復帰」とは、ある目標としていた本来の位置や場所があって、その位置から外れたために、その失った位置を目指す、或いは、元にもどろうとしていることであり、これはある方向に向かって発展している、いうことを意味するからです。果たして、歴史は、ある方向に向かって発展して来ているのでしょうか。
こう考えてくると、歴史を操る大いなる意思が存在する、ということも場合によっては、議論せざるを得なくなってきます。この一文は、それを提案できる、と言っているようなものです。
文先生の「歴史は復帰歴史である。」という歴史観は、人類歴史が、アダム家庭を復帰するための歴史であったという認識に成り立っています。その詳細は、文先生の御言を研究すれば、より明確なものとなってくると思います。本開設はその手助けになることを目的としています。
そして、この歴史観は、仮に、アダム家庭が復帰された場合、本来どんな世界が展開されたのかということも提唱していくことになろうかと思います。復帰がなされた後の世界とはどういう世界なのか、ということも提唱していく世界観であるはずです。そういう意味で、今までとは全く違う世界を提唱する、創造する希望の歴史観だということです。
本当にそうなのかどうか。
一言では語れないにしても、文先生の御言にはそれに匹敵する内容が含まれていると思います。どうかご自身の研究の対象にしてみてほしい、というのが私の提唱です。
●01-02「この復帰歴史の完成、復帰の目的をいつ成し得るのか」
非常に奥深い課題を掲げられました。
「復帰歴史の完成」とは、創造本然のアダム家庭を再創造することです。
そのアダム家庭とは、神様がお住まいになられる家庭のことです。原理的な表現をすれば、「三大王権と四大心情が完成された家庭」のことです。この内容に関しては、別途、詳細に説明いたしますが、神様は個人にもお住まいになられますが、家庭に相対される、ということです。原理を調べていくと、神様の構造が、家庭的な構造をされているのではないか、と思います。
三つの大きな王権というのは、祖父母、父母、孫夫婦の三世代のことを指し、その三世代を構成する心情のきずなが4つの心情である、と言っています。兄弟姉妹の情、夫婦・父母の情、祖父母の情、そして神様の情の4つの情の完成は、完成された家庭に存在します。神様は、そういった世代間の慈しみある心情で構成されているお方である、と原理は歌っています。ですから、見えない神様が、見える家庭に共鳴・シンクロされるのです。ここが本来の目的であり、創造の出発点だった、ということです。
この目的をなすこと、天的な家庭を成すことが、「あらゆる問題解決の基準」となっているとのこと。これもまた凄い話です。
「あらゆる問題の解決の基準」と言い切れるその理由とは何なのでしょうか。上記のような家庭が、どうしてすべての問題の解決の基準になれるのか。
生きるとはどういうことなのか、死とは何か、死後の世界はあるのかどうか、などの宗教的な問題を含め、人間とは何かといった個人の問題から、国家や世界的な国際レベルの政治や経済の問題、歴史という問題にいたるまで、それらの異なった範疇の問題を、一本の筋の通った基準で解決が出来る、と言いきれる理由は何なのか。
こういうことを提唱できるお方こそ、メシヤ、救世主というにふさわしいお方なのだと思います。文先生の御言を研究していくと、2000年前のイエス様は、ローマを通して世界に出るのが本来の目指すべきお姿であったし、イエス様御自身もそのことをご理解されつつも、十字架で倒れられたとおっしゃっています。こういう話をすれば、異端である、という話になろうかと思いますが、神様が幸福をお考えになられた場合、精神性だけではなく、物質面にも通ずる世界に幸福を実現されようとされるはずですし、ユダヤ一国だけの神様ではなかったはず、と考えます。そういう観点から考えると、イエス様が世界に出ていかれるというのは、至極当然のことではなかったのかと思っています。